西福寺縁起

Auspicious

西福寺は静岡市大鋸町4-8にあり
開基は徳川家康公にして、開山は【真蓮社貞譽上人素道房願故了伝大和尚】という方であります。

永禄3年5月20日、今川義元が尾張の桶狭間で、織田信長の奇襲にあって討ち死にし、これに従軍して前線の大高城に赴いていた家康公が、その報せを受けて大高城を撤退し、織田方の急追をうけながら岡崎付近まで来たものの、松平氏の居城だった岡崎城は、今川方の武将が入っており、城に入ることができません。

そこで、縁故のある大樹寺に難を避けましたが、織田方に寺を包囲されました。家康公も一時、切腹を覚悟されましたが、住持の登譽上人に固く止められ、「ここは先祖親忠公の位牌所であり、親忠がここに葬られたとき、松平一門はその法要にあたり、いかなる事が起こっても、一同結束して大樹寺を守るべし」との誓約文に連署した由緒を思いおこさせ、その時『厭離穢土、欣求浄土』の大旗を授けられました。

家康他一同は、敵兵を追い散らしましたが、たまたま寺内に逗留していた了伝和尚(西福寺開山上人)は、大樹寺山門の閂(かんぬき)をふるつて、敵兵を散々打って回り、家康公護衛に大活躍をされたという伝説があり、この時より家康公との縁故が結ばれるようになりました。

その後、家康公は嫡子信康にゆずり、当時、引間野といわれていた浜松へ移られ、三方ケ原で武田信玄との合戦があった時、その地で怨みをのんで討ち死にした亡魂が、いろいろ付近住民に禍を起こすので、家康公は了伝和尚に命じて大念仏を修し、その亡魂を解脱させたといわれます。

それが永く村民の間に伝え広まり、現在も「遠州大念仏」として伝承されております。

幕末の天保の頃に、人々に親しまれた(江戸名所図絵」に「真蓮社貞譽上人・…・遠州犀ケ崖戦死の迷魂得脱の功は、武士の戦功にひとしければ、その功を永世に伝えよと神粗松平の御称号、並びに山号等を賜う」と出ております。

家康は天正14年、駿府にうつり城下を一段と整備され、この時、家康公が開基となり現在の大鋸町(当時の寺町)の地に西福寺が建立されました。

天正18年 家康は秀吉の小田原征伐に従い、北条氏滅亡後、関八州250万石に封ぜられ、江戸城へ入りました。

こうした動きの中で開山上人も江戸へ共にし、西福寺は、慶長3年、新たに江戸に一寺を建て、駿府の旧によって寺号はそのまま西福寺とし、場所は今の東京都千代田区神田台の一角で、この場所は、三代将軍家光の寛永年間の刊行になる地図に記載されています。

ここは、駿府の旗本たちが集中的に屋敷を与えられていたところであり、現在も駿河台とよばれているところであります。 西福寺はその後、現在の蔵前に移っております。

駿府の西福寺は、了伝和尚が江戸に移ってから、後に京都・百万遍・知恩寺の法主となった円譽文覚が継ぎ、駿府城は初代の城代・松平大隅守重勝が護り、死後、西福寺に葬られ現在お墓があります。

その後、重勝公の子孫が西福寺を護持した為、戦前の本堂の屋根瓦や仏具類等には、松平重勝家の紋である雪笹がつけられ今も使用しております。

その後西福寺は、静岡大火・静岡大空襲により二度全壊しており、「第三十世 観譽上人(空襲により遷化)」・「第三十一世 悠穗上人」・「第三十二世 一紀上人」が護寺繁栄に尽くされ、現在の西福寺がございます。